今や、サービス業は、いかに“個客”のニーズに対応できるかの勝負だ。 金融サービスもこの例外ではなく、お仕着せの金融ではなく、お客様一人一人に適合性の高いサービスを提供できるかの競争を行うことが求められている。にもかかわらず、なぜか銀行に関しては、寡占状態を生み出すこととなる『統合論』が盛んだ。 前回、前々回と「一県一行論」をはじめとする銀行統合論に異を唱えてきたが、筆者も今の金融環境が素晴らしいものだと思っているわけではない。 「一県一行」のごとき選択の余地もない状態は論外だが、すべての銀行が同じことしかできないのなら、それはまやかしの選択肢であり、何の意味もない。 日本の金融が遅れているとの指摘を受ける原因は、この同一性、すなわち「質にバラエティがないこと」だ。しかも、それが初歩的なブローキングサービスに留まっており、世間もそれでよし(≒銀行なんてそんなもの)と考えていることだ。 この打開策として求められるのが、言い古された言葉だが『選択と集中』だ。 選択とは、裏を返せば「何かを切り捨てること」であり、概念的には、ジェネラリストとして総花的な対応が求められる大型化や一県一行とは相反する。ジェネラリストであるためには、特定分野に対する“深い知識”よりも、様々な ニーズを有するお客様に 対応し得る”(浅くとも)幅広い知識”が優先されるからだ。 今回は、地域金融機関が何を目指していくべきなのかを踏まえ、統合論が望ましい方向性ではないことを述べてみたい。 『一県一行論』は、“金融新時代”の意味がわかっていない人の視点 “マスコミ受け”狙いや、改革を促すための危機感を煽るべく敢えて語っている場合はともかく、本気で、オーバーバンキング論や一県一行論を発信している人たちというのは、金融をトランザクション・バンキングでしか理解できていない人、それが金融機関の出身者であれば、まず間違いなく市場系出身者だ。 金融市場における取引の目的は「利殖」であり、金利のみが取引対象(関心事)だが、その時々の金融環境に応じた適正価格(金利)がある中、一人とびぬけた金利設定はできない。したがって、ボリュームの多寡がそのまま収益の多寡に影響する。“カネ余り”による金利の低下は、「多売」では勝負できない中小の“出し手”にとっては致命的で、短資会