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9月, 2020の投稿を表示しています

今できるささやかな「地域支援」

『地銀再編』は、イコール『統合』ではない(その3) ―日本の金融の弱点は「選択肢が少ないこと」!―

  今や、サービス業は、いかに“個客”のニーズに対応できるかの勝負だ。 金融サービスもこの例外ではなく、お仕着せの金融ではなく、お客様一人一人に適合性の高いサービスを提供できるかの競争を行うことが求められている。にもかかわらず、なぜか銀行に関しては、寡占状態を生み出すこととなる『統合論』が盛んだ。 前回、前々回と「一県一行論」をはじめとする銀行統合論に異を唱えてきたが、筆者も今の金融環境が素晴らしいものだと思っているわけではない。 「一県一行」のごとき選択の余地もない状態は論外だが、すべての銀行が同じことしかできないのなら、それはまやかしの選択肢であり、何の意味もない。 日本の金融が遅れているとの指摘を受ける原因は、この同一性、すなわち「質にバラエティがないこと」だ。しかも、それが初歩的なブローキングサービスに留まっており、世間もそれでよし(≒銀行なんてそんなもの)と考えていることだ。 この打開策として求められるのが、言い古された言葉だが『選択と集中』だ。 選択とは、裏を返せば「何かを切り捨てること」であり、概念的には、ジェネラリストとして総花的な対応が求められる大型化や一県一行とは相反する。ジェネラリストであるためには、特定分野に対する“深い知識”よりも、様々な ニーズを有するお客様に 対応し得る”(浅くとも)幅広い知識”が優先されるからだ。   今回は、地域金融機関が何を目指していくべきなのかを踏まえ、統合論が望ましい方向性ではないことを述べてみたい。   『一県一行論』は、“金融新時代”の意味がわかっていない人の視点 “マスコミ受け”狙いや、改革を促すための危機感を煽るべく敢えて語っている場合はともかく、本気で、オーバーバンキング論や一県一行論を発信している人たちというのは、金融をトランザクション・バンキングでしか理解できていない人、それが金融機関の出身者であれば、まず間違いなく市場系出身者だ。 金融市場における取引の目的は「利殖」であり、金利のみが取引対象(関心事)だが、その時々の金融環境に応じた適正価格(金利)がある中、一人とびぬけた金利設定はできない。したがって、ボリュームの多寡がそのまま収益の多寡に影響する。“カネ余り”による金利の低下は、「多売」では勝負できない中小の“出し手”にとっては致命的で、短資会

『地銀再編』は、イコール『統合』ではない(その2) ―銀行の“数減らし”は「世界に誇れる金融立国」の実現を遠ざける!―

 日本は、世界屈指の経済大国でありながら、金融分野については「遅れている」と言われている。  日本の金融の“遅れ”は、金融リテラシー教育の遅れとともに、地域や特定分野に精通したコミュニティバンクがそのスペシャリティを発揮して躍動するよりも、ブローキング主体の“凡庸な銀行”が「一つあれば十分」といった思考も大きな原因であろう。 金融の中心を担う銀行が、単純なブローキングから脱しようとしないので、発展のしようがないのだ。 この最大の原因と考えられるのが、銀行の新陳代謝が滞っており、数限られた金融機関に金融が委ねられていることだ。独占的営業基盤が確立されており、黙っていても客がつく環境が確保されているため、余計な“チェレンジ”はしないという選択をする金融機関が増えるわけだ。   過日、菅総理も「銀行は多い」との見解を示していたが、例えば、総理の故郷、秋田県には銀行、信金、信組を合わせて 5 行庫しかない。全県をカバーしている銀行が 1 行しかないことを思えば、生活圏内での選択肢は 2 , 3 行庫しかない地域も少なくなかろう。この状況でさらに金融機関の“数減らし”が行われれば、いよいよ選択肢はなくなってしまう。 選べない以上、「役に立たない金融機関」と付き合い、その言いなりになるしかない。 こうした「床の間経営」が許される環境下では、銀行としても、手っ取り早い収益基盤の構築手段は、統合を通じて“寡占エリア”を拡大し「うち以外の選択肢はない」状態を作ってしまうことだ。金融ソリューション力の強化など二の次でよい。これが日本の金融の現実なのだ。 言うまでもなく、「一県一行」は、この思考をより強固なものにする金融統制時代の発想だ。 この時代錯誤も甚だしい論調には閉口するばかりだが、なぜか異論を唱える者は少ない。   小が大に勝つ“立ち位置” 金融機関の規模が小さいと、経営が安定しない。経済の血流を担う金融機関の経営が安定しないことは、日本経済に悪影響を与える。 これが統合論者の発想だ。 金融を、単なる資金仲介業務(トランザクション・バンキング)、すなわち、大量生産型の低付加価値事業ととらえれば、「スケールメリットを生かせるもの」「資金力のあるもの」が優位だ。これは金融業界に限ることなく、常識と言っても過言ではあるまい。 ただ

『地銀再編』は、イコール『統合』ではない(その1) ―「一県一行」なら、日本の金融は崩壊する―

  自民党総裁選挙への出馬表明の会見において、最有力候補である菅官房長官が、地域銀行の数は多いとの認識を示し、再編を示唆していた。 金融行政に明るいとは言えない菅氏からのこのような発言は、政権内にも、足元の国民生活を顧みないグローバル市場主義者の声が蔓延していることの表れであろう。 『日本は、本当に「オーバーバンキング」なのか?』 でも記したとおり、日本の金融機関数は、諸外国比、むしろ少なく、金融閉塞問題の原因は“数”ではなく、その“質”だ。 多様化するニーズに対応し得る『金融立国』を目指すためにも、「オーバーバンキング論」とともに、世間に蔓延する「一県一行論」に対し、異論を述べさせていただきたい。   「一県一行主義」の目的は、徹底した金融統制 現在、概ね一都道府県にひとつの「第一地銀」が存在する。これは、かつて政府が「一県一行主義」を掲げ、銀行の整理統合を行ってきた名残だ。 昭和初期、支那事変を経て 太平洋戦争へと向かうことなる時代背景の中で、政府には、戦費の調達と国債の円滑な流通のための徹底した金融統制が求められるようになり、その実現手段として「一県一行主義」が掲げられた。 要するに、数多ある銀行に自由な経済活動を許していては政府の思い通りにはならないため、銀行の事業基盤を確立してやることと引き換えに、政府の言うことを聞く(聞かざるを得ない)構造を作りたかったのだ。この政策は戦時下も継続され、150を超えていた銀行数が終戦時には 61 行、これが現在のメガバンク、第一地銀としての歴史をつないでいる。 しかし戦後の復興期、これまで国民からの資金の吸い上げを目指していた立場から、今度は全国各地に復興資金を流通させる必要が生じると、これではまったく足りなかった。 そこで、いくつかの銀行を設立したり、無尽会社を相互銀行(現在の第二地銀)に転換したりと、銀行を増やすことに力を入れた。 それでも供給者不足は解消されず、戦後 20 年を経た高度経済成長期に至ってもなお、大企業にしか資金が提供されない(中小企業や個人は相手にされない)のが実態で、これを補完するために、地域内で資金を融通する組織としての信用金庫や、業界団体や職域内で資金融通を行う信用組合が次々に誕生し、中小企業や個人を支えることとなった。 以上のとおり、歴史的には

パソナの淡路島移転は『首都圏一極集中』解消の第一歩となるか?

  人材紹介大手のパソナが、本社機能を淡路島に移転すると発表したことが、話題を集めています。 『首都圏一極集中の解消なしに、日本経済の復活はない!』 で記したとおり、首都圏への極端なヒト、モノ、カネの集中が日本経済に閉塞感を生んでいることを思えば、パソナのような大企業が東京を離れることは歓迎すべきことです。 報道によれば、移住対象になる従業員は 1,200 人とのことなので、家族も含めた人口移動は 4 千人規模が見込まれます。 これだけの人が動けば、彼らの生活を支えるため、あるいは彼らを対象とするビジネスのために淡路島に移住する人も出てくることでしょう。例えば、子供たちが通う学校の教員も増員が必要でしょうし、生活必需品を販売する商店や飲食店なども増えるなど、“人が人を呼ぶ”効果への期待が膨らむわけです。 ただ、これがモデルケースになるか否かは、正直、微妙です。 かつて『首都移転』の際に、「那須だ、東濃だ、鈴鹿だ」といった地域が話題となったのと同様、選択が極端すぎて、現実味や再現性が期待できないことがその理由です。 パソナの場合、すでに 10 年来の地縁を有していたことが淡路島を選択した理由であり、突拍子もない空論をぶち上げた『首都移転案』と同列に語ることはできませんが、それでも「よりによってなぜ淡路島なの?」と思われた方も多いことでしょう。 京阪神在住者からも「淡路(大阪市内、新大阪駅の東方)やろ?え!淡路“島”?何で?」といった反応が見られます。   従業員の生活上の利便性には不安も… 現在の事業所が手狭になった、市街化が進み近隣の環境が変わったなど、社屋や工場の“移転話”自体は、常に存在する話ですが、こうした事案で候補地を検討する際の最重要ポイントは、社員がついてきてくれる住みやすい町であるかという点です。 もちろん、淡路島は、神戸まで車で 1 時間ほどの距離であるにもかかわらず、都会の喧騒とは無縁で、気候的にも穏やかな自然豊かな土地です。ただ、現在のところ阪神地区への移動は車、または高速バスで明石海峡大橋(高速道路)を経由するほかなく、遠くはありませんが、生活圏ではありません。 仮に目論見どおりの移住が実現しても、その数が数千名程度にとどまっている限り、鉄道の整備にまで話が及ぶことはないでしょう。 誤解のない