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今できるささやかな「地域支援」

『地銀再編』は、イコール『統合』ではない(その3) ―日本の金融の弱点は「選択肢が少ないこと」!―

 今や、サービス業は、いかに“個客”のニーズに対応できるかの勝負だ。

金融サービスもこの例外ではなく、お仕着せの金融ではなく、お客様一人一人に適合性の高いサービスを提供できるかの競争を行うことが求められている。にもかかわらず、なぜか銀行に関しては、寡占状態を生み出すこととなる『統合論』が盛んだ。

前回、前々回と「一県一行論」をはじめとする銀行統合論に異を唱えてきたが、筆者も今の金融環境が素晴らしいものだと思っているわけではない。

「一県一行」のごとき選択の余地もない状態は論外だが、すべての銀行が同じことしかできないのなら、それはまやかしの選択肢であり、何の意味もない。



日本の金融が遅れているとの指摘を受ける原因は、この同一性、すなわち「質にバラエティがないこと」だ。しかも、それが初歩的なブローキングサービスに留まっており、世間もそれでよし(≒銀行なんてそんなもの)と考えていることだ。

この打開策として求められるのが、言い古された言葉だが『選択と集中』だ。

選択とは、裏を返せば「何かを切り捨てること」であり、概念的には、ジェネラリストとして総花的な対応が求められる大型化や一県一行とは相反する。ジェネラリストであるためには、特定分野に対する“深い知識”よりも、様々なニーズを有するお客様に対応し得る”(浅くとも)幅広い知識”が優先されるからだ。

 

今回は、地域金融機関が何を目指していくべきなのかを踏まえ、統合論が望ましい方向性ではないことを述べてみたい。

 

『一県一行論』は、“金融新時代”の意味がわかっていない人の視点

“マスコミ受け”狙いや、改革を促すための危機感を煽るべく敢えて語っている場合はともかく、本気で、オーバーバンキング論や一県一行論を発信している人たちというのは、金融をトランザクション・バンキングでしか理解できていない人、それが金融機関の出身者であれば、まず間違いなく市場系出身者だ。

金融市場における取引の目的は「利殖」であり、金利のみが取引対象(関心事)だが、その時々の金融環境に応じた適正価格(金利)がある中、一人とびぬけた金利設定はできない。したがって、ボリュームの多寡がそのまま収益の多寡に影響する。“カネ余り”による金利の低下は、「多売」では勝負できない中小の“出し手”にとっては致命的で、短資会社が劇的な再編を見たように、市場取引を本業としている組織にとって、規模は死活問題にもつながりかねない重要な要素だ。

この感覚をそのままに地域金融機関を眺めれば、生き残るためには、経営統合を経て規模の拡大を図るより他ない、となるわけだ。

あるいは、「銀行なんて、どこもやっていることは同じ」「銀行と信金、信組って、何が違うのかわからない」といった庶民感覚は今も健在のようだが、「これを変える」ということがどういうことなのかがわからない人たちの目線だ。

統合による集約を地域金融機関の将来像のメインシナリオと見る風潮は、かつて識者を自認する人たちに、定価販売をする小規模店舗であるコンビニが、大きな集客力を背景に大量消費を前提とした廉価販売を展開する大型スーパーに「勝てるわけがない」と言われていたのに通じるものがある。

同じものをスーパーよりも高値で販売するわけであるから、価格競争の視点では、多くの識者が言ったとおり、コンビニは圧倒的に劣勢だ。しかし周知のとおり、コンビニは、価格とは異なる視点、すなわちその名のとおりの“便利さ”、さらには“手軽さ”や“気軽さ”で消費者からの支持を得て、大型スーパーを圧倒する小売業界のメインプレイヤーになった。

金融機関が、お金の仲介者に過ぎないと考えている人たちには理解できないことかもしれないが、営業店取引は、価格(=金利)以外の差別化要素の入る余地がない市場取引とは土台の異なる、サービスの質の高さによって多くの対価を求める士業型、コンサル型の業務だ。したがって、その取引決定要素の基本は、サービス水準(力量)であり、規模の大小は関係ない。

例えば、裁判に備えて弁護士に仕事を依頼する人の目的は、「勝つこと」であり、価格よりも「その弁護士で勝てるのか」のほうが重要だ。受ける弁護士側も、特定分野への専門性を高めることで「この分野なら誰にも負けない!」をアピールすることに力を注ぐはずだ。

「何でもござれ」のスーパー弁護士は、フィクションの世界にしか存在しないのだ。

コンサルタントも然り、「そのコンサルタントに頼んで、企業価値向上につながる有益なアドバイスが得られるのか」が判断基準であり「安いほうがいい」わけではない(もちろん、コンサルティングファームを名乗るITハウスに高額の費用を支払うことは論外だ)。

これからの銀行は、この例のように「少々金利は高いが、それを凌駕するサービスが期待できるあの銀行と付き合っておくべきだ」と思われなければ、生き残ってはいけないのだ。

地域金融機関が目指すべきは、メガバンクには遠く及ばない中途半端な大型化を目指すのではなく、彼らとは全く違う視点で、顧客に価値を提供することを目指すことではないだろうか。その規模を維持するために総花的に対応せざるを得ない銀行は、ターゲットを絞り込んで対応する銀行に比べ不利になるはずだ。


規模が小さいと経営が安定しない…これが統合論者の主張の根幹にある考え方だが、ソリューションビジネスに規模は関係なく、小規模でもしっかりと顧客基盤を構築し、安定した経営を続けられるか否かは経営の問題で、これを実現している会社はいくらでもある。

「オーバーバンキング」や「一県一行」を唱えているのは、多くの中小企業の資金繰りを窮地に陥れた「“短コロ(※)”はけしからん」という新入行員並みの発想で批判を展開した人たちと同類だ。マクロ経済には強いのかもしれないが地域金融、中小企業金融の理解に乏しい素人の稚拙な主張に振り回されていては、生き残りは難しかろう。

   短期で繰り返し取り組まれる融資のことで「短期融資がころがされている」というところから“短コロ”と呼ばれている。これは、商品や材料の仕入れ、製造・販売を繰り返すという商売上のモノの動き、すなわち資金繰りと平仄の取れたもので、モニタリング上のメリットもある。ところが、金融の基礎知識に乏しい人たちから、「結局、長期にわたって貸し続けることになるのであれば、最初から長期融資にしておけばよいではないか」との批判の声が出た。これを真に受けた銀行側にも非はあるが、企業の資金需要とは全く整合性のない長期融資が増加したことにより、特に資金的な余裕のない中小企業では、資金繰り難に陥る企業が多発することとなった。

 

経営統合では『金融サービスの質』は向上しない!

現在の競争環境の中でも、総体としては「独自性の確立は不十分」(すなわち低付加価値業務中心の「薄利多売体質」)との評価が下されているのに、一県一行のような半独占的な“ぬるま湯環境”を与えられた金融機関が、より質の高いソリューションの提供に向け不断の努力を続け、他者の参入を許さないような状態を作り、維持していけるとは、申し訳ないが、思えない。



さらに、ソリューションサービス事業では、地域金融機関が、他者に付け入る隙を与えていないつもりでいても、「もっと質の高いサービスを提供できる」と考える新規参入者が現れる。こうした“高付加価値競争”が始まることが、『世界に誇れる金融立国』実現のステップとなるのであり、「一県一行」などという競争のない環境は弊害にしかならない。

ましてや、現在の金融行政は、個々の金融機関による情報開示を通じて、利用者が最も自分に適していると思われる金融機関を選択できる環境を目指している。つまり、それぞれの利用者が利用可能な範囲内に、その“選択肢”がなければならない。

特に“モノ”を伴わない金融取引の場合、預貸金の商品性の違いは、技術的な裏付けや生産設備の変更等を要する“製品”とは異なり簡単に真似ることができるため、差別化要素にはなりえない。したがって、他行庫が容易に真似ることのできない差別化要素とは、利用者それぞれの趣向に即したサービスの質(≒提案力)に向かうものと考えられるが、この向上のためには、継続的なコミュニケーションが極めて重要となる。

簡単な話が、“異常”を認識するためにはその人の”普通の状態”を知っていなければならないし、“納得の提案”を行うためにはその人の”趣向”を知らなければできないわけで、いずれも日常的な付き合いを通じて『その人をよく知っている』ことが前提だ。

だとすれば、利用者が、情報開示を通じて「是非ともこういう金融機関と付き合いたい」と思ったとしても、それが『自分を知ってもらうための日常的な接触』を持つのが不可能な遠く離れた地で行われているものでは意味がない。


当局が掲げる『金融立国』のコンセプトとの整合性がないことも含め、やはり、「一県一行」など論外だ。

 

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