スキップしてメイン コンテンツに移動

今できるささやかな「地域支援」

『地銀再編』は、イコール『統合』ではない(その1) ―「一県一行」なら、日本の金融は崩壊する―

 自民党総裁選挙への出馬表明の会見において、最有力候補である菅官房長官が、地域銀行の数は多いとの認識を示し、再編を示唆していた。

金融行政に明るいとは言えない菅氏からのこのような発言は、政権内にも、足元の国民生活を顧みないグローバル市場主義者の声が蔓延していることの表れであろう。

『日本は、本当に「オーバーバンキング」なのか?』でも記したとおり、日本の金融機関数は、諸外国比、むしろ少なく、金融閉塞問題の原因は“数”ではなく、その“質”だ。

多様化するニーズに対応し得る『金融立国』を目指すためにも、「オーバーバンキング論」とともに、世間に蔓延する「一県一行論」に対し、異論を述べさせていただきたい。

 

「一県一行主義」の目的は、徹底した金融統制

現在、概ね一都道府県にひとつの「第一地銀」が存在する。これは、かつて政府が「一県一行主義」を掲げ、銀行の整理統合を行ってきた名残だ。

昭和初期、支那事変を経て太平洋戦争へと向かうことなる時代背景の中で、政府には、戦費の調達と国債の円滑な流通のための徹底した金融統制が求められるようになり、その実現手段として「一県一行主義」が掲げられた。

要するに、数多ある銀行に自由な経済活動を許していては政府の思い通りにはならないため、銀行の事業基盤を確立してやることと引き換えに、政府の言うことを聞く(聞かざるを得ない)構造を作りたかったのだ。この政策は戦時下も継続され、150を超えていた銀行数が終戦時には61行、これが現在のメガバンク、第一地銀としての歴史をつないでいる。

しかし戦後の復興期、これまで国民からの資金の吸い上げを目指していた立場から、今度は全国各地に復興資金を流通させる必要が生じると、これではまったく足りなかった。

そこで、いくつかの銀行を設立したり、無尽会社を相互銀行(現在の第二地銀)に転換したりと、銀行を増やすことに力を入れた。

それでも供給者不足は解消されず、戦後20年を経た高度経済成長期に至ってもなお、大企業にしか資金が提供されない(中小企業や個人は相手にされない)のが実態で、これを補完するために、地域内で資金を融通する組織としての信用金庫や、業界団体や職域内で資金融通を行う信用組合が次々に誕生し、中小企業や個人を支えることとなった。

以上のとおり、歴史的には「一県一行」は、国による徹底した金融統制を行うための手段として進められたもので、自由な経済活動を前提に、誰しもが金融サービスを受けられる(=「金融包摂」)状態を作るためには、100200の金融機関数では足りないのだ。

 


銀行の「経営統合」が望まれているわけではない!

「一県一行」…非常にセンセーショナルで、いかにもマスコミ受けしそうな言葉であるが、これは“金融サービス”をビジネスとして捉えることのできない人の発想だ。

「金融」を単なるブローキング業務と捉え、社会インフラ事業のように考えるのなら、「一県一行論」も理解はできる。しかし、金融サービスは、基本的に民業である。いくつもの事業者が、お客様の獲得を目指してしのぎを削ることが自然の姿であり、これを通じてサービスの質が高まっていくことが、自由主義経済の最大のメリットだ。

そもそも、ブローキングのみに着目するのであれば、都道府県単位に別の銀行である必要はまったくない。銀行の財務状況や姿勢により金融環境に地域差の生じる可能性のある一県一行よりも、郵便事業のごとく『全国統一基準』でサービスが受けられるように、全国で一行にするほうが、筋が通っている。


「一県一行論」が脚光を浴びるようになった大きな転機は、2013年の「金融機関の将来にわたる収益構造の分析について」という金融庁作成のレポート、通称『森ペーパー』だ。統合論者の中には、これをもって「金融庁も地銀の経営統合を望んでいる」と公言する者までいる。しかし、このレポートは、自然体で地域経済の将来性を眺めた場合の市場規模予測(もちろん『衰退予測』だ)に基づいて、各地域金融機関が“これまでどおり”、すなわち”ただの金貸し”では立ち行かない現実を可視化し、危機感を持ってビジネスモデル改革を実行することを促すことを狙ったものであり、経営統合を推奨しているわけではない。

そして、ここには“このままでは存続が難しい銀行も出てくる”との予測はあるが、「じゃあ、どうするのか」については記されていない。

”ただの金貸し”ではなくなるために為すべき事…、それを「考えなさい」と言っているのだ。

その真意を汲めなかったのか、話題性を優先したかったからなのかはわからないが、「一県一行でも成り立たない」に焦点があたり、“一人歩き”がはじまったわけだ。

これもわかりやすく例えるなら、『森ペーパー』は模擬試験のE判定だ。これを受け、「不合格は決定的!急がれる志望校の変更!」という言葉が躍っているわけだ。…確かに、頭をよぎる言葉だが、通常、ここで考えるのは“挽回策”であり、「今のままでは厳しいよ」と言われて速攻であきらめる受験生などいないだろう。

一方で、浅はかな理解で騒ぎ立てる無責任な外野が、受験生にとってどれほどうっとうしい存在であるのかは容易に想像できよう。


また、この公表後、畑中金融庁長官(当時)が、地域銀行の経営陣に対し、経営統合もひとつの選択肢として将来像を真剣に検討するように要請したことも、衝撃的な発言として統合論者やマスコミを喜ばせることとなったようだ。

しかし、これもその前後のコメントや施策と合わせて考えれば、その真意は明白だ。

すなわち、これからの金融機関は、旧態依然としたブローキングだけでは生きていくことができない新しい時代を迎えることになる。“今のまま”では、近い将来、経営が行き詰まる銀行が出てくると予想されるが、金融行政は、これまでの統制から監視に大きく舵を切る。つまり、今後は、淘汰される銀行を救うつもりはない。これを踏まえて、経営者として、持続可能な新しいビジネスモデルへの転換に、早急に取り組んでもらいたい。さもなくば、単体での生き残りは難しいかもしれない、と。

逆説的に言えば、持続可能な新しいビジネスモデルへの転換に成功すれば、単体で生き残ることはできるということで、要は、その取り組みを促すための最後通牒だったのだ。

…つまり「経営統合も選択肢」は、変革に向けた意欲のない“やる気のない銀行”に向けられた言葉なのだ。

2003年のリレバン公表以降、10年も経つのに、相変わらず利己的かつ小手先の収益獲得策が目につき、抜本的な変化が見られない業界に向け「いい加減にしないと本気で怒るぞ」と言いたかったのではないだろうか…。

 

効率化を目論んだ経営統合は有効な選択肢なのか?

そもそも、安易な経営統合論を持ち出す人たちは、基本的なビジネスモデルの変革もなしに、図体を大きくして重複事務の削減などを通じたコスト削減を行えば、銀行の経営状態や収益環境が変わるとでも思っているのだろうか。


人口動態を中心としたマクロ的な国家構造が、現在の一極集中を解消できないままであれば、地域経済の衰退(≒日本経済の縮小)は避けられない。しかし小さな経済圏だからといって、金融サービスに対するニーズがなくなることはない。

ただ、小さな経済圏であるために、出口であるファイナンスに至った場合のボリュームも大きなものにはならないことが多いだろう。加えて、先述のとおり、入り口のニーズは多種多様だ。つまり、少量多品種の需要にこたえていくことが求められるようになるわけだ。

この時、現在“統合”を大義と信じて中途半端な規模となっている金融機関は一番危ないと、筆者は考えている。

世界で戦える規模には遠く及ばないが、地域経済には大き過ぎる“居場所のない金融機関”となっている可能性が高いと考えられるためだ。

経営統合により、10兆円規模の地銀連合の誕生が話題となることもあるが、既存行を見渡せば明らかなとおり、グローバル市場で存在感を発揮するには、50兆円の資金量でも心許ない。一方、地域金融機関であり続けるなら、10兆円もの資金量を支える経済規模を有する地域は(大都市圏以外には)見当たらない。地域格差も大きいが、例えば都道府県という行政区を基準とすれば、平均的な規模感は36兆円が限度だろう。

ただ、特に地域金融機関として活動していく上では、規模の大小よりも、広域統合により「どこが地元なのだかわからない金融機関」になっていることが問題となると、筆者は考えている。

今現在、メガバンクにも地域銀行にもなりきれず、その存在感を示せずに苦戦している銀行がいくつかあるではないか。

元国策銀行で、ふるさとどころか主たる営業エリアさえ定かでない銀行や、生い立ちは“本拠地”を有する銀行だったが、統合を繰り返し、時が経つにつれ「元○○銀行」の認識も薄れ、気が付けば“ふるさとを持たない銀行”となってしまった銀行などだ。――彼らの名誉のために付け加えておくが、こうした中でも地域密着型を標榜し、このハンデを十分に認識しつつも地域に根付こうと必死に努力している銀行もあるのだ。――片や、「地元」が明確であり、地域内では十分な知名度も有する金融機関が、なぜ、その地位を失うかもしれない道を選ぼうとするのか、筆者には理解できない。


また、地域経済にとっても、地元銀行の統合は、喜ばしいことではない。

近年も県を跨いだ大型の経営統合がいくつかあり、中には、両県の経済力に明らかな差がある事例もあった。交通網の発達とともに経済圏が広域化する現在、県単位で考えることに意味があるのかという問題はあるが、これを脇に置けば、この場合、経済力の弱いほうの地域にとっては、地元経済を支える銀行がなくなったに等しい。

統合に際し、表向きはこれを否定するようなコメントは出るだろうが、効率性向上のために経営統合した企業が、非効率な地域戦略を推進することは大きな矛盾だ。経済合理性に照らし、経済力に劣り、将来性も期待できない地域への資本投下は、当然、統合前より減らされることになるはずだ。せいぜいできるのは、風評リスク対策を根拠に、この時間軸を長めに設定し「ゆっくり静かに退く」こととするぐらいのことだろう。

県境を越えることがなくても、営利企業である地域金融機関が、経営資源配分上の優先順位付けは避けることはできない。県内で寡占状態を築くことができれば、銀行は上位顧客に資源を集中し、それ以外の顧客は切り捨てられることになろう。

例えば、シェア100%を獲っても1億円に遠く及ばない借入しかない零細企業や、家計金融資産が1千万円に満たないような庶民は、「手間の割に稼ぎにつながらない顧客」として相手にされなくなるということだ。…「ネットバンキングの仕組みを用意してやるから、勝手にやれ」とでもなるのが関の山だろう。

…先述の戦後の復興期への逆戻りだ。

現在、このような状態に至らないのは、県内に競争があり、上位顧客だけで十分な取引量を確保することが難しいこと、加えてこれを補完する中小金融機関が存在するためだ。もし「一県一行」なら、国民の半数が金融にアクセスできないということも絵空事ではなく、俗に郡部と呼ばれるような地域は、金融不存在の壊滅的な状況になるだろう。

こうして、ますます地域差は拡大していくことになる。

 

規模の拡大による効率化を見据えた再編は、ブローキング業務の効率性にだけに目線が置かれたものだ。つまり、大量生産を前提に、その生産性向上を目論む工業型であり、一人ひとりが個々の顧客ニーズに応え、その質の高さによって多くの対価を求めようとする士業型、コンサル型とは異なる。

もちろん、個々の質を高めることと規模は、基本的に無関係であり、大きな組織にはできないというものではないが、工業型の効率性向上を狙う再編を進める銀行の目が、ここに向けられているとは思えない…。


地域金融機関は、経営統合を考える前に、提供する付加価値の質を高めることによって、トップラインを引き上げる生産性の向上を目指すべきではないのだろうか。

 

コメント

このブログの人気の投稿

年金の「繰上げ受給」「繰下げ受給」について考える

去る 5 月 29 日、年金改革関連法案が成立しました。 パートなどの短時間労働者への厚生年金適用拡大や、 60 ~ 64 歳の間の在職老齢年金制度における減額基準の引き上げ( 28 万円から 47 万円に)に加え、年金受給開始時期の 75 歳までの繰り下げが可能となりました。(いずれも 2022 年 4 月から実施)。 今回は FP の立場から、年金の繰り上げ受給、繰り下げ受給について考察してみましょう。   年金の繰上げ受給と繰下げ受給とは? まず、繰上げ受給、繰下げ受給について簡単に整理しておきます。 老齢年金は 65 歳からの受給開始が原則ですが、実は、現行の年金制度でも、この受給開始時期を 60 ~ 70 歳までの間で変更することが可能で、 65 歳より前に受給を開始することを繰上げ受給、後に受給を開始することを繰下げ受給といいます。 今般の法案成立により、この選択肢が 60 ~ 75 歳までに広がります。 年金の繰上げ受給とは、年金の支給開始年齢を前倒しにすることで、前倒し期間に応じて年金受給額が月あたり 0.5 %減額されます。例えば、 61 歳で繰上げ請求すると、 4 年( 48 か月)前倒しで受給する分、年金は 24 %(= 0.5 %× 48 ヶ月)減額され、 76 %が支給されます。逆に繰下げ支給とは、支給開始時期を後ろ倒しにすることで、その期間に応じて年金受給額が月あたり 0.7 %増額されます。(下表参照) 【支給開始年齢別の支給率(抜粋)】 ※    受給額に応じた税金は考慮しておらず、また端数処理も行っていないため、実際の手取りとは異なります。(以下、全表同様)   繰上げ受給、繰下げ受給のメリット・デメリット 繰上げ受給のメリットは、すぐに年金の受け取りを開始できることです。 無年金期間であるはずの 65 歳まで間に収入を確保できるのはありがたいことですが、繰上げ支給による減額率は、一生涯続きます。 65 歳になったら、本来の支給額に戻るということはありませんので注意してください。 繰上げ受給者の請求理由として最多の「長生きすると思っていない」にはコメントのしようがあり

今後のマンション価格はどうなる? ―「マンション・バブル」の崩壊はあるのか?―

  全国のマンションの平均価格は上昇を続け、ついに首都圏の新築マンションの平均価格は、過去最高値 (6,123 万円= 1990 年 ) を超える 6,260 万円に達し、「不動産バブルの再来」とも言われています。 このような状況の中でもマンションを購入している人たちからは、将来のマンション価格の上昇を見越して、「いまのうちに購入しておきたい」という声も聞かれます。 これはまさに、“買うから上がる。上がるから買う”という、バブル期に土地や株が高騰した時の状況に酷似していますが、今後のマンション価格はどうなるのでしょうか。   マンション価格の推移 マンション価格のこれまでの推移を見てみると、下表のとおり、 2008 年のリーマンショックにより、一時、下落したものの、近年では、新築・中古ともに上昇傾向にあます。     住宅価格の上昇の中でも、マンション価格の上昇は突出! 日銀の異次元金融緩和政策の下で住宅ローン金利も記録的な低金利となっており、「住宅購入には絶好のタイミング」と言われています。「不動産価格指数」(国土交通省)からも、近年の住宅価格は着実に上昇を続けており、旺盛な需要があることがわかります。 その中でも特筆すべきがマンションであり、戸建住宅等と比べるとマンション価格の上昇には、目を見張るものがあります。 低金利を追い風に住宅取得需要が増加する中でも、特にマンション価格が大きく上昇した理由としては、以下が考えられます。 ・建築資材や人件費などの建築コストの上昇 ・都市部への人口集中に伴う需要の増加 ・相続対策や資産運用手段としての需要の増加   建築コストの上昇は、マンションだけに影響するものではありませんが、戸建て価格の相当部分は土地代であり、都市部ではその過半を占めることも少なくありません。これに対してマンションは、その価格の大半は建物(建築)価格であるため、建築コストの上昇の影響をより大きく受けるわけです。   次に、都市部への人口集中による需要の増加です。 コロナ禍以前、住居に関して「都心回帰」の動きが注目されていたことをご記憶されている人も多いでしょう。現役世代のみならず、か

普通の家庭でも「遺言書」を書くべき理由とその作成要領

   「遺言書なんて…、そんな大袈裟なことをするほどの財産はありませんよ」。  相続のご相談において、よく聞かれる言葉です。  遺言書には、 l   相続トラブルの大半を占める遺産分割トラブルの回避 l   特定の人に特定の財産を引き継ぐ自分の意思を伝える といった意義があることは広く知られていますが、今後の相続においては、 l   第三者の介入により相続が紛糾してしまうリスクの回避 という点が、これまで以上に重要な意味を持つようになると考えられます。 遺された家族が無事に相続を乗り切るための手助けとして、 是非、その作成を考えてみましょう。   遺産分割トラブルの回避 相続 といえば、映画やドラマの中では、多額の遺産をめぐって遺族同士で揉める “争族” が描かれることも少なくありません。しかし、私の経験からは、多額の遺産が見込まれる人は、万全の事前準備の下でスムーズに手続きが進むことのほうが多く、トラブルは、「たいした“財産”もないし、うちに限ってそんな心配はない」と高を括り、特段の準備をしていなかった家で起きることのほうが多いように思います。 実際、最高裁判所が毎年刊行する『司法統計』によると、例年、家庭裁判所に持ち込まれる遺産分割事件(調停や審判)は 1 万 2 千件前後に及びますが、その約 3 / 4 が、遺産総額が 5 千万円以下の案件( 1 千万円以下に絞っても全体の 1 / 3 強)となっています。 “裁判沙汰”になっている相続事案の大半が、遺産総額がそれほど大きくないケースなのです。そして、 そのほとんどが 分割トラブルです。 「相続財産と呼べるようなものが自宅しかない」ケースはその典型例ですが、相続財産に占める実質的に分割が難しい資産の割合が大きい場合、これを相続する人と、他の相続人との間に大きな差が生じることになります。また、家業を営んでいるケースでは、自社株や個人名義となっている事業用資産等を跡取りに集中させることが望まれますが、この結果、他の相続人に相続させる財産がなくなってしまうこともあります。 こうした不均衡が、例えば「兄がすべてを相続し、自分には何もないなんておかしい!」といった不満となり、相続トラブルに発展してしまうことが少なくないのです。 あるいは、相続人それぞれの事情や考え方によ