日本は、世界屈指の経済大国でありながら、金融分野については「遅れている」と言われている。
日本の金融の“遅れ”は、金融リテラシー教育の遅れとともに、地域や特定分野に精通したコミュニティバンクがそのスペシャリティを発揮して躍動するよりも、ブローキング主体の“凡庸な銀行”が「一つあれば十分」といった思考も大きな原因であろう。
金融の中心を担う銀行が、単純なブローキングから脱しようとしないので、発展のしようがないのだ。
この最大の原因と考えられるのが、銀行の新陳代謝が滞っており、数限られた金融機関に金融が委ねられていることだ。独占的営業基盤が確立されており、黙っていても客がつく環境が確保されているため、余計な“チェレンジ”はしないという選択をする金融機関が増えるわけだ。
過日、菅総理も「銀行は多い」との見解を示していたが、例えば、総理の故郷、秋田県には銀行、信金、信組を合わせて5行庫しかない。全県をカバーしている銀行が1行しかないことを思えば、生活圏内での選択肢は2,3行庫しかない地域も少なくなかろう。この状況でさらに金融機関の“数減らし”が行われれば、いよいよ選択肢はなくなってしまう。
選べない以上、「役に立たない金融機関」と付き合い、その言いなりになるしかない。
こうした「床の間経営」が許される環境下では、銀行としても、手っ取り早い収益基盤の構築手段は、統合を通じて“寡占エリア”を拡大し「うち以外の選択肢はない」状態を作ってしまうことだ。金融ソリューション力の強化など二の次でよい。これが日本の金融の現実なのだ。
言うまでもなく、「一県一行」は、この思考をより強固なものにする金融統制時代の発想だ。
この時代錯誤も甚だしい論調には閉口するばかりだが、なぜか異論を唱える者は少ない。
小が大に勝つ“立ち位置”
金融機関の規模が小さいと、経営が安定しない。経済の血流を担う金融機関の経営が安定しないことは、日本経済に悪影響を与える。
これが統合論者の発想だ。
金融を、単なる資金仲介業務(トランザクション・バンキング)、すなわち、大量生産型の低付加価値事業ととらえれば、「スケールメリットを生かせるもの」「資金力のあるもの」が優位だ。これは金融業界に限ることなく、常識と言っても過言ではあるまい。
ただ、ここには創造性が欠落しており、ビジネス視点では稚拙と言われても仕方がない。
身近な例では、地域の商店と大規模流通事業者の戦いだ。
単純に、ナショナルブランド商品を仕入れて販売するというビジネスモデルでは、大手の仕入れ力、圧倒的な販売量を前提とする低い限界収益に基づく売価設定は、地域商店の努力程度では到底太刀打ちできるものではない。大手SC等の進出により、地域商店が大打撃を受け、廃業を余儀なくされる例もあることは、誰しもがよくご存じのことであろう。
端的に言えば、これを「仕方ない」で済ませてしまうのが統合論者の基本スタンスだ。
しかし、大資本の攻勢の前に、地域商店や商店街が皆、座して死を待っているわけではない。資金力も乏しく、スケールメリットも活かせないが、地元の中小企業であることを武器に、どうあがいても勝ち目のない“価格”とは異なる選択基準によって顧客を獲得すべく、知恵を絞り、小さくともしっかりとした顧客基盤を築いている事業者はいくらでもいる。
まさに地元と一心同体であるこうした企業にとって、地域の人口の減少や高齢化の加速、経済衰退の影響は、なんだかんだと言っても越境取引や市場取引といった逃げ道を有する地域金融機関の比ではないが、それでも「仕方がない」で済ませることなく、生き残るための戦いを続けているのだ。
中小金融機関では金融は安定しないため『統合』を模索すべき…。
このような稚拙な発想には、半沢直樹でなくとも「君は小学生以下か?」と言いたくなろう。
もう一つ加えれば、これが真実なら、中小企業や個人の金融を新陳代謝の激しい地元の小さなコミュニティバンクが担うアメリカ経済は、半世紀以上前に崩壊しているはずだ。
「小が大に勝つ」事例は、今や様々なメディアでも取り上げられているとおりだが、その成功要因を一言でいえば、勝ち目のない価格競争とは距離を置き、同じ小売りでも、大手とは違う立ち居地に新しい価値を生み出し、お客様の支持を得ることだ。
“同じ金融でも、メガとは違う立ち居地に新しい価値を生み出す”…地域金融機関に求められているのは、これに向けた創意工夫であり、メガバンクの1/10、1/20程度に過ぎない規模の地銀連合、ましてや経営が立ち行かなくなった者同士が寄り集まった『弱者連合』など、誰も望んでいない。
『地銀(地域金融)の再編』=『経営統合』ではない
首都圏一極集中がとどまる気配を見せず、地域経済の先行きに明るさが見えない状況では、地域金融機関の将来に不安があることは事実だが、その解決策を、イコール経営統合と考えるのは、あまりにも短絡的だ。
では、縮小が予想される地域で、既存の金融機関はどうすればよいのだろう。
ここで考え得る策(ステップ)は、次の3つだ。
ひとつは、マーケット変革を起こし、前提を変えることによって自然体予測を覆すこと。
ふたつめは、想定されるトップライン、あるいは予想される市場規模の中で生き残れるよう、自らの図体を縮小すること。
最後に、事業の存続を諦め、ソフトランディング可能な体力のあるうちに幕引きを図ることだ。
銀行自身、窮地に陥った取引先のターンアラウンドに際し、こうした検討を行っているであろうから、これらの選択肢は、十分に承知していることだろう。
金融新時代における地域金融機関の使命は、地域活性化の旗頭になることだ。したがって最初に考えるべきは、ブローキング業からコンサル業へと自らの立ち位置を変え、金融サービスの変革を通じて地元企業の支援・育成や個人の豊かな生活の実現に向けた支援を行い、地域経済は衰退するという自然体予測を覆すことだ。
もちろん、金融機関を中心に地域が一丸となって立ち向かっても、世の中の大きな流れを食い止めることは簡単ではない。残念ながら力及ばず、市場が縮小していくのなら、そしてなお地域と共に生きることを望むなら、得意の合理化、効率化の御旗の下でのコスト削減(≒縮小均衡)をもって、トップライン規模に合わせた事業縮小を行うというふたつめの選択肢も残されているはずだ。
なぜこれをすっ飛ばし、いきなり“経営統合”から検討がはじまるのか…。
巷に踊る“識者談”も、経営統合を第一の選択肢に据え、地域金融機関に地域を見捨てることを促すような論調が多く、当局が意図した(と思われる)「地域金融機関のビジネスモデル転換を加速する」とは、まったく違う方向を向いてしまっている。
その多くが、マクロ経済、グローバル経済を専門とする統合論者には、同じ“銀行業”でも、地域金融機関のCIは、メガバンクのそれとはまったく違うのだということが理解されていないのだろう。
地域金融機関の(あるべき)CIに基づいて考えれば、地域金融機関の再編は、「統合」による大型化よりも、明確なターゲットにしっかりと寄り添うための専門性を高めるための「細分化」のほうが望ましいのかもしれないと、筆者は考えている。
今後の地域金融機関は、こうした『ブティック型』、すなわち規模が大きいわけではないが、利益率の高い組織を目指していくことも、一つの方向性といえよう。
現存組織でいえば、信用組合やJAは、これを「地」で行く組織といえるかもしれない。
事業組合型や職域型の信用組合の場合、対象顧客が限られているため、規模は大きくないことが多い。しかし、特定の業種、あるいはその従業者を相手にしているため、同業界、あるいはそこに従事する人の経済的特性や悩みなどに対する深い理解があり、「個客」適合性の高いサービスの提供を通じて共感を広げていける可能性がある。農業関係者を主体とする顧客基盤を有するJAも然りだ。
薄利多売で勝負のできる巨大銀行を目指さないのであれば、このターゲットの絞り込みと引き換えに手に入れる顧客適合性の高い提案力を武器に、“でかい図体だけが取り柄”の愚鈍な銀行を圧倒することを目指していくべきではないだろうか。
利用者にとっても、図体はでかいが「個客」対応力に欠ける金融機関しか選択肢がないような環境よりも、自分のことを本当にわかってくれる金融機関を選べるような環境のほうが望ましい。
ならば、それに近づいていく再編こそが、いま求められている『地域金融機関の再編』だろう。
コメント
コメントを投稿